1524年、南米に向けた征服の協定が、アルマグロ、ピザロ、ルケの三者間で正式に締結された。8月初旬には、南方はるかな陸地を発見し、征服するために必要な許可を得た。
アルマグロはパナマに残り、兵士を募集し、ピサロの指揮する遠征隊のための補給を担当した。数回の南米への遠征の後、ピサロは、ペルーでの彼の足場を確固とし、インカによって保持された領土を探検した。彼は、1532年、カハマルカの戦いで皇帝アタワルパのインカ軍を破るのに成功した。ペルーがスペイン人の手に落ちた後しばらくは、ピサロとアルマグロは共に、彼らの統治権を強化するために新都市の建設で一緒に働いた。そのため、ピサロは、彼らの管轄の一部として統治権限があることを要求するため、アルマグロをインカ帝国北部の都市キトに派遣した。彼らの仲間の征服者であったセバスティアン・デ・ベラルカサルはピサロの同意のないまま先へ進んだが、インカ帝国キト守備隊ルミニャウイ将軍によるキトの破壊を目撃した。インカ兵は、都市を燃やし、スペイン人に発見できないような場所に金を埋めた。
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インカの金を求めたペドロ・デ・アルバラードのメキシコからの到着は、アルマグロとベラルカサルにとっての状況を更に複雑にした。しかしながら、アルバラードはピサロから金銭による賠償を受け、それと引き換えに南米を去った。
アルマグロとベラルカサルは、1534年8月、現地人の都市であったキトを再建し、ピサロに因んで「サン・フランシスコ・デ・キート」と名付けた。4カ月後にはペルーのトルヒーヨ市を建設したが、これもピサロの出生地に因んだ命名であった。これらの出来事はピサロとアルマグロの友情の深さを物語っている。